2003


【2003年】
主将
24期 須藤淳

第27期入部

長沼 亮 心理教育 TB/K
サッカーで大分スゴイとこまでいったらしい

林 健太 人間科学 FS
なっち好き。道産子だけに。

松岡 宏樹 心理教育 LB
興部は読めません。

青柳 英明 人間科学 G
居酒屋あおやぎ跡取り息子

道下 いずみ 幼児心理 
STAFF/AnalyzingManeger
小さいけれど凄いんです!

松岡 しのぶ 幼児心理 
STAFF/AnalyzingManeger
お菓子の食べすぎに注意

大塚 藍 心理教育
STAFF/Trainar
え?歌う人? あ、漢字は違うんだ。


飛猿がHP作りサイトマネージャー(略してSM)に着手。
某2chをベースにしているというとんでもないものだった。

また、モバイルサイト「ぽけっとodin」も始動。
いいのかこの名前で。
未だにスペルの大文字小文字がハッキリわからない。

長沼は入部当初からいい意味でも悪い意味でも長沼だった。
最初は10人位新入部員がいた気がする。そんな、思い出。
この年からスタッフに、
マネージング、アナライザー、トレーナーの
分担制ができた。

と思ったんだけど違ったっけ?

文教チャレンジ奨学金に
ボランティアの功績が認められる。


こいこい祭
そうだ!WeAreArrive!ショートばーじょん


エリアBブロック東関東エリア
対帝京平成42○0
対日本工業53○14 対江戸川26○14 対神田外国語42○0
勝4-負0-分0 1位


入替戦:対電気通信大学19●26 敗退

昨年の「打倒江戸側大学」を経て迎えた平成15年度シーズン。
目標は「全勝優勝、3部昇格!~3部のオーディン」と非常にシンプルになりました。
このシンプルさは3部に上がることの信念の透明性であり、全くの迷いもなく3部に向けて取り組んでいくことの決意を表していました。
オフェンスも入替戦を想定し、昨年までのパワーIからのダイブ中心のボールコントロールオフェンスではなく、フレックスボーンからのオープンとパスをメインとした、ハイスコア・バランスオフェンスに変更しました。
オープンとパスメインと言いましても、FBには昨年のリーディングラッシャーの高木啓樹(現:Xリーグ、クラブシャークスFB)が扇の要の役割を果たしていましたので、まさに磐石の態勢でした。
フレックスボーンのSBには、走れて、ブロックもできて、パスも取れるというアスリートが要求されます。
そんなチームの要請を待ち受けていたかのように、当時3年生の酒主浩聡・真中裕也(両者、現:オーディンコーチ)、逵宏樹らが台頭します。
また、昨年のTBの根岸聖、田村昌大も、パートチームが一気に大所帯になり、彼らに触発されその才能が開花します。さらに、パスの頻度が増えたことに俄然貪欲になったSE永田卓(現:オーディンコーチ)、西崎雅俊らが、存在感を猛烈にアピールしてくれました。

 リーダー香取郁馬を中心としたディフェンスも「Get The Ball!」をスローガンに、ボールをパンチするタックルに取り組みました。
その成果が現在のオーディンのボールを奪うタックルを当たり前に行なう風土となって受け継がれています。

 チームの運営に関しては「学生主体」ということを強く打ち出しました。
この年から私はオフェンス・ディフェンスのミーティングを直接に司会することを退き、事前にリーダーに話す内容を打ち合わせし、資料を作成し、リーダーに全て任せるというやり方をとりました。
この年、死の危機から奇跡的に復帰し、オフェンスリーダーに就任した太田は、最初はスピーチが苦手だったのですが、ミーティング中の自分のスピーチの様子をビデオに撮影し、話し方を研究するという涙ぐましい努力の甲斐もあって、チームを引っ張るリーダーとして成長しました。
コーチの私がミーティングを行ないますと、どうしても「これをやれ!」「それは無理です」といった、ある意味で労使交渉のようになってしまうこともありましたので、太田のスピーチはチームのポテンシャルを高める上で大いに貢献しました。

チームが主体的になれば私のコーチとしての役割はかなり限られてきますので、学生の一番苦手な役割、つまり「叱り役」に徹底することができました。
この年はとにかく選手・スタッフを叱りました。しかし「叱れる」というのは学生に自信があったから「叱れる」訳でして、自信のない人間を叱ると、心を挫けさせてしまうだけで、良い結果にはならないものです。
この年は私が厳しく叱ってもへこたれないであろう学生の自信と、それをフォローするリーダー達に全幅の信頼を置いていました。

対外的な取り組みも、昨年のように対戦相手を「敵」とみなすだけという体質から脱却して、獨協大学、埼玉大学との交流や、Xリーグ:富士通フロンティアーズの選手招聘も実現しました。
その流れはその後も継続され、翌年は当時4年生の西崎雅俊が、学生チーム向けのフットボールクリニックにパネリストとして招かれていたXリーグIBMのコーチ:ディビット・スタント氏に半ば強引に近づきまして、3グラにIBMのコーチをお招きさせていただき、その後の選手・スタッフの派遣研修も継続させていただいております。
この辺りの行動力こそが、女子大の共学化の1年目にフットボール部を立ち上げるという、初代キャプテンの飯田広三さんから受け継ぐ「建部の精神」、オーディンらしさでしょう。
「打倒、江戸川!」から「強いチームから学ぶ」というある意味で明治時代、「尊皇攘夷」から「欧米列強に学ぶ」というスタンスに切り替えた薩摩藩の維新戦士にも通じます。
これらは「オーディン維新」とも言うべき改革でありました。

また、3年前から傍島史聡(元:オーディンコーチ)、宮田知之を中心にスタートしました地域へのコミュニティー活動(当時は「広報」という観念が育っておらず、「ボランティア活動」と呼んでいました)も、この年に初めて鶴見研治(前:オーディンコーチ)が中心となって「オーディン主催による子供達とのフットボール交流会」という形で実を結びました。
その様子はベースボールマガジン社刊行のフットボール雑誌「タッチダウン」にも取り上げられ、越谷市でも話題となりました。南荻島の子供会とは今でもお付き合いさせていただいておりまして、チームを支えていただいております。

一方、肝心の練習の取り組みですが、オフェンスの練習内容は、プレー合わせと、昨年度に痛い思いをしたスウィングゲートのフォーメーションシフトの2つを毎回タイムを計って記録するという今までの常識を覆すような方法を取りました。これにより練習にスピード感が生まれ、プレーにもテンポができてきました。
この練習の成功には女子スタッフの貢献によるところが大きかったと思います。
運動部のマネージャーといいますと、やかんを持って選手の後をくっついてくるイメージを持たれる方も多いかもしれませんが、オーディンの女性スタッフは自ら主体性を発揮し、管理・運営面に取り組む、まさにManageの直訳どおりの経営者であると言えます。
そうした自立した大人として主体的に動けるスタッフチームというのは、文教大学の他の体育会運動部の追随を許さず、現在でも他のチームに誇れる、オーディンの文化・風土の1つとなっています。

そんなチームの努力が終結したオフェンスは、初戦の神田外語戦では42点、第2戦目の江戸川大学戦では26点、第3戦目の日本工業大学戦では53点、第4戦目の帝京平成大学戦では42点という驚異的な数字をはじき出します。
特に過去のライバルの江戸川戦では第1Qに2本のタッチダウンを先制されながらも、途中雨で中断後の第一プレー目、オプションからの一発抜けタッチダウンが見事に決まります。
そこから反撃の狼煙を上げ、あっさりと逆転に成功しました。
そのとき、チーム内には「このまま負けてしまうのでは」という焦りや危機感は全くなく、全員が逆転を信じきっている様子で、まさに横綱相撲といった感さえありました。

このようにリーグ戦を勝ち進み、入替戦に駒を進めたオーディンだったのですが、電気通信大学との入替戦では、選手、スタッフの頑張り、ファンの声援もむなしく、惜しくも19対26で敗れてしまいました。
敗因はやはりコーチである私の読み誤りでした。
電気通信大学はオフェンスラインのサイズがオーディンのラインエースの中野有貴と比べても一回り大きかったので、インサイドのダイブは多少出されるのは覚悟していたのですが、相手のフォーメーションがプロIのみということで、DLはOLと心中し、LBのタックルのタイミングさえ合わせれば何とかなるだろうと踏んでいました。
相手はうちのフレックスボーンの対策に時間を取られるため、オフェンスの改良までは手が回らないだろうというのが私の予想だったのですが、それが完全に読み違いでした。
相手は両TEから、ワンバック、フレックスIからのモーションと、多彩なオフェンスを準備してきたのです。ただプレーの種類自体はほとんど変わらなかったのですが、全くの予想外のオフェンスに若いDL陣が戸惑い、入替戦という重圧もあったのでしょうか、DLで頭角を現した五味厚、橋本賢らも、普段の思い切りの良さがなく、相手のペースに巻き込まれます。
終盤やっとペースをつかむのですが、時すでに遅く、無念のホイッスルを聞きました。勝負の世界に「~たら」「~れば」は禁句ですが、今にして思えば、
もしオーディンがリーグ戦のときのように伸び伸びとプレーしていれば…
もしディフェンスに何かしらの対応が取れていれば…
もし下級生の層がもっと厚ければ…
という思いが脳裏をかすめることは禁じえません。

しかしながら、そのときに悔しい思いをした在校生が4年生の意志を受け継ぎ、その後コーチとして酒主、安宅が本場アメリカのディフェンスパッケージを導入し、見違える発展を遂げます。

この年は春から入替戦を想定して、1年生をしごきにしごきました。春のオープン戦で1、2年生のみで試合を組み、しかもプレーは対々とマンツーのみという前代未聞の修羅場を用意しました。ボロボロと退部者が出たのですが、その中でも折れなかった長沼、松岡、林、青柳。この4人が生き残りました。

その後、この4人の精鋭が4年生になった年に、この年のキャプテンの須藤ら多くのメンバーがチームに残り、この試合の反省点を全て克服し、三部復帰を実現するに至ったのです。

近代化の礎としての役割を終えたと判断したコーチの福田は「目標達成に至らなかったコーチとしての責任」を理由として、この年をもってコーチの職を退きました。

文責:福田

@文教大学
教育学部に心理教育課程を設置



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