オリジ息子5
改めて部屋を見渡すと、そこは寝室らしかった。
そういえば、ベッドがある。
乱雑に、まるでそこにいた人が毛布を跳ね除けて飛び起きたように乱れているベッドの上に、宗治はそろりと腰掛けた。
毛布の中に手を入れると、ほんのり暖かい。
芳隆がここに眠っていたのだろう。
少しだけ毛布に頬をすり寄せ、宗治はベッドから離れた。
頬に触れた毛布から香ったのは、芳隆の匂い。
胸の鼓動が早くなった。
ひとしきり部屋の中を歩き回り、宗治は机の上に目をとめた。
日記が置いてある。
興味が、こんな時でも湧かないわけではない。
「…(ごめん、おじさん)」
とりあえず心の中で謝り、宗治は日記を手にとった。
ページをめくっていく。
その日記は随分と大きく、分厚かった。
すぐに腕が辛くなり、机の上に日記を置いて読むことにした。
きれいな字だ。
全体的に右に傾いだ文字が、整然と並んでいる。
大人の美しい文字に、宗治は溜息を零した。
シックな部屋の中。
濃い茶色の、アンティーク調の机の上にはノートパソコンがある。難しげな株の本や、複合機。
宗治には理解できない内容の書類。
ひとりでいるには充分な広さの室内には大きな戸棚もあった。
レトロな地球儀がある。
勝手に動き続ける、銀輪と球体のヤジロベエも。
ここが芳隆の世界だった。
気が付けば、日記のページをめくる手が止まっていた。
再び日記に視線を落とす。
そのページの日付は、宗治の母が亡くなってから数ヵ月後の物だった。
何枚かページをめくってみるが、そのページ以前は空白が多い。
芳隆の苦悩の痕が、目に見えた。
母が亡くなったとき、何か言っていなかっただろうか。
必死で文面をなぞる。
生々しい、芳隆の記憶。
宗治には一切知らされなかった真実。
苦しかっただろう。
芳隆も、母も。
酷い喪失感を抱えてしまったこと。
もう二度と戻らない日々を悔やんでいること。
事故を起こした犯人を恨んでいること。
けれど、恨んではならないと、それは妻が望まないと、堪えていること。
宗治が哀れでならないこと。
最後に、彼女が告げた言葉。
「………」
とても鮮明だ。
実際には見ていない事故の光景が、まざまざと浮かび上がる。
出血量から、おかしくひしゃげた体の様子。
周りの空気。
血の匂い。
涙の流れる、頬の冷たさ。
すべて、頭の中にビジョンとして流れ込んできた。
宗治は日記を机に置いた。
窓のカーテンを開くと、外が明るい。
月の光だけではない。
階下の部屋に、次々と明かりが灯っている。
それが芳隆の歩く軌跡なのか。
窓から離れ、宗治はドアに歩み寄った。
宗治の父親は廊下にいた。
キッチンから包丁を盗み出し、出てきたところに出くわした。
男を探す芳隆の体に絡みつく闇は、歩く先々で点けられた照明によって切り裂かれていた。
最早家の中に闇は少ない。
廊下に降り注いでいるのは、月光だけではなかった。
「動くな」
竹刀を構え、芳隆は鋭く、重く言い放つ。
男は血走った目を、憎しみを込めて芳隆に向けた。
その憎しみは何に対するものなのか。
芳隆に対する物か、情事の邪魔をされたことに対する物か、存在が明るみに出たことに対する物か。
男は血色が悪かった。
無精ひげは長く伸びている。
何日も風呂に入っていないのだろう。恐ろしいほどの悪臭を漂わせていた。
年の頃は40~50代ではないだろうか。
落ち着きがなく、視線がよく逸れる。
体も小刻みに揺れていた。
息は荒い。
「包丁を捨てろ」
危ないから。
それも、もちろん捨てろと言った理由の一つだった。
だがそれ以外にも理由はある。
男の持つ包丁は、亡き妻の愛用していた物だ。
汚されたくない。
己の血でも、男の手でも。
その思いは、伝わるはずもなかったが。
「っあぁっ!!」
唸りを上げて切りつけてくる。
壁に背を打ち付け、芳隆は鋭利な刃先から逃れた。
手に握った竹刀が軋む。
切りかかってきた後の男は、背後ががら空きだった。
大きく振り上げ、全ての重力を乗せるように打ち下ろす。
空気の抵抗をも切り裂くように。
切れぬ物は何もないと思わせるほど、早く。
そして強く。
「~っ……クソっ…」
予想以上のダメージに、男はよろめいていた。
竹刀は芳隆の狙いから少しずれていた。
脳天を狙うはずだったのだが、男のおぼつかない足元が災いして竹刀は背を打ち据えていた。
恨みが増しげな瞳が、肩越しに注がれる。
そんな目で見られる覚えはない。
「…出て行け。」
「はっ……命令するな…」
竹刀で窓の向こうを指し示す。
いったぐらいで出て行くとは思えなかった。
だから、すぐに竹刀を構えなおしていた。
その動きが、ぴたりと止まる。
「………。」
男の肩越しに、宗治がいた。
澄んだ瞳をつい、と細め、薄く微笑んでいる。
芳隆が息を飲む間に、宗治は右足を踏み出した。
目の前で苦痛を感じているのは、血の繋がった父親だ。
ただ、哀れとは思わない。
愛していないわけではなかった。
一時は、父親を愛していた。
息子として。
所詮、一時に過ぎなかったが。
今、ここに存在するのは、違うのだ。
遠い過去に愛し、尊敬していた父とは。
全く違う。
もう帰ってこないだろう。
二度と会うことはないだろう。
会えない。
会ってはいけない。
父が、会いたいと願っても。
何故なら、会えなくなる状況を作ったのは、紛れもない、父本人なのだから。
父の肩越しにいるのは、不恰好な竹刀の構え方をする芳隆。
彼が、今の父親。
宗治の手には、竹刀。
構えを思い出す。
身の動かし方を。
もう必要のない糸を、断ち切らねば。
「……さようなら」
空気の中に、宗治の声が落ちた。
ガラスの割れるような、澄んだ声だ。
その直後に竹刀が振り上げられた。
緩やかに、水のように滑らかに。
静かな、静かな夜だった。
狙い通りに竹刀は落ちていく。
滝が流れ落ちるように激しく。
大きく小気味良い音の後に、重い音が続く。
竹刀は男の急所を的確に捉え、意識を奪ったようだった。
倒れこんだ男の顔を、宗治は寂しげに見下ろす。
顔を上げると、芳隆と目が合った。
微笑んで見せる。
遠くから、パトカーのサイレンの音が響いていた。
「終わったよ」
「…大丈夫か、」
「ちょっと手が痺れる。」
「そうじゃなくて」
芳隆がもどかしげな声を出し、倒れる男を見下ろした。
分かっている。
彼が何を言いたいのか。
だから、あえてはぐらかした。
それよりも、芳隆に触れたかった。
父の姿を視界の端に留めながら、芳隆に近づく。
その視界が急に上向いた。
天井を見上げている。
「っあ……」
足が掴まれた。
そのまま引っ張られ、宗治は床に頭を打ち付けるところだった。
咄嗟に肘を突いていなかったら、危なかった。
「何を…!」
視線の先にあれのは天井。
しかしその視界は塞がれた。
いつの間に目を覚ましたのだろうか。父親が、上に圧し掛かってきた。
抵抗しようと伸ばした腕が払われる。
代わりに、父親の腕が首に伸びてきた。
圧迫される。
息が出来ない。
「っ…宗治…父さんが…楽にしてやる……」
「やめろ!!」
父親の肩越しには、良い父親になろうとしてくれている芳隆の姿があった。
必死の形相で、宗治を助けようとしてくれている。
「宗治は俺のものだっ!!」
首を締める手に力が入る。
宗治は眉をきつく寄せた。
その首がことりと落ちる。
「宗治っ!!」
呼びかけても返事はなかった。
宗治が、死んだ。
父親は宗治の首から手を離し、肩を震わせて笑った。
これで宗治は誰の物にもならないと。
もう自分だけの物だと。
「……なんて事を…」
床に膝をついた芳隆の頭は真っ白だった。
また大切な物をなくしてしまった。
もう嫌だと、あの時確かに思ったのに。
宗治だけでも守り抜くと決めたのに。
それなのに、また失ってしまった。
繰り返してしまった。
まただ。
床に散る宗治を、見つめる自分には何もできない。
ただ、視界には宗治の落とした竹刀が入っていた。
「…振る…」
大きく振らなければ。
強く。
のろのろと手を伸ばす。
芳隆の耳には、男の泣き笑いの声。
おろかな男だ。
泣くらいなら、宗治を殺さなければ良かったのに。
私から、宗治を奪わなければ良かったのに。
クリアな頭の中には、復讐の炎がちらついていた。
竹刀を手に取る。
視界は右へ動き、振り向いた先の男に向かっていく。
みしみしと悲鳴をあげる竹刀を、上体が反るほどに振り上げた。
こんなことをしても、宗治は帰らない。
頬を伝った涙が、戻ることもない。
いつの間にか、芳隆は涙を零していた。
妻を失った時には流れなかった涙。
再び失った痛みに、堪えきれずに流れてしまった。
振り上げた竹刀は、吸い込まれるように男の脳天を打った。
ただ、それだけ。
宗治は帰ってこない。
倒れていく男を見ている間にも、芳隆の頭の中は真っ白なまま。
宗治は動かない。
一度も見られなかった笑顔を、この先も見ることはない。
ずっと。
ずっとだ。
警察官が、家に中に入り込んできた。
芳隆は竹刀を落とし、ふらふらと宗治に歩み寄った。
虚ろな目に映るのは、力をなくした宗治の体。
触れてみれば、暖かい。
まだ生きているのではないか。
愛しい宗治。
まだ、何もしていない。
何もしてやれなかった。
父親ぶるばかりで、愛情など注げなかった。
それでも、ようやく宗治に近づけるようになったと思っていた。
少しずつでも。
幸せだった。
これからもっと、2人の時間を築くはずだった。
愛しくて、ならない。
それを、無くしてから強く感じるとは思っても見なかった。
失う痛みを知っていたというのに。
「宗治……?」
頬は柔らかく、触れれば指が吸い込まれそうだ。
抱き起こした体にも、温もりがある。
今にも動き出しそうだ。
それなのに。
それなのに。
「……泣いてるの」
宗治の頬に、涙が落ちた。
芳隆の涙。
それが命を吹き込んだかのように、宗治は目を開いた。
「…宗治?」
「やだ…泣いてるの、おじさん」
元気そうだ。
どういうことだろう。
宗治が生きている?
「ごめん……その…このままだと、殺されると思って……死んだふりを…」
言いにくそうに口ごもりながら、宗治はちらちらと芳隆の表情を窺った。
呆然とするしかない芳隆は、ひたすらに宗治の目を見つめている。
「おじさん、しっかりして…」
目の前で手をひらひらと動かすが、芳隆は脱力してしまう。
生きていてよかったという安心感と、本当に失ったかと思う恐怖が津波のように押し寄せていた。
宗治が嫌がるかもしれないが、それには構わず、芳隆は強く宗治を抱きしめた。小さく唸る宗治の声。
全てが愛しい。
華奢な指が、芳隆の髪に触れた。
警官が、何かを話し掛けてくる。
被害者の方ですか。
そう言っている。
ただ、その声は遠く響くばかりだった。
宗治の声だけが耳元に甘く残る。
「…母さんが、言ってたの思い出したんだよ」
頬を赤く染めた宗治は、芳隆の肩に顎を乗せて呟いた。
宗治の顎から、芳隆の肩に振動が伝わってくる。
柔らかな手つきで、芳隆は宗治の背を撫でていた。
「沖田っていう、新撰組にいた人…あの人は病気で死んだから良かったんだって言ってた。もし病気じゃなかったら、他人に殺されてたはずで、もし沖田が殺されていたら、仲間の人たちは悲しんだし、何より憎しみを抱えたはずだからって。それに、病気だと諦めもつくって……ねえ、聞いてるの」
本当は恥ずかしくてならなかった。
警官が、いつになったらこの親子は動き出すのかと見守っているのだ。
宗治の顔は真っ赤になっていて、視線は落ち着かなく彷徨った。
「だから俺も、死んでみたんだ……殺されるのは、嫌だったから…」
「…そうか…」
ようやく返ってきた反応に、宗治はほっと息を吐いた。
見上げた空は、薄く白んでいる。
綺麗な、薄青色の空だった。
「……おじさん…ありがと…」
目を閉じる。
芳隆は僅かに、宗治の香りを吸い込んだ。
++++++++++++++++++++++++++++++
季節感の表現というのは難しいですね・・・。
といいつつ、表現しようとは微塵も思ってなかったり。
ではでは。次回ラストです。
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