オリジ息子
息子
この初夏に、めでたく結婚した。
妻になった女性はバツ1だった。
結婚など過去に一度も考えたことがなかったが、両親の迷惑な計らいで見合いをすることになり、結婚となった。
妻は子連れだったが、その子供はまったく懐いてくれず、常に独りでいた。
年の差が影響しているのかもしれない。
古く荘厳な空気をまとった日本家屋に、家族3人で住んでいた。
両親から譲り受けた土地と家屋に、妻は驚いていた。
こんな素敵な家に住めるなんて、と。
息子は無表情だった。
私と結婚してから、妻の姓は『松本』から『霧生』に変わった。
その変化を噛み締めながら、松本と名乗りそうになる姿が記憶から離れない。
彼女はいつも、霧生さん、と呼びかけてきた。
下の名前である『芳隆』とは、ついに呼ぶことはなかった。
呼ぼうとしていたようだが、霧生さんと呼ぶ癖が付いてしまっていた。
息子は私を『おじさん』と呼んだ。
それはそれは、奇妙な日々だった。
妻は笑みを絶やさない女性だった。
歳は43で、目尻には愛嬌のあるシワがあった。
長く美しい黒髪を、腰の辺りまで伸ばしていた。
43歳とは思えぬ美貌の持ち主だった。
気立ても良かった。
家事は完璧で、近所付合いも見事にこなした。
人に媚びることをせず、常に私を立て、息子を愛し、己の道を貫く。
そんな素晴らしい女性だった。
そんな妻が、巨額の保険金を残してこの世を去ったのは、3ヵ月前のことである。息子はショックのあまり、離れに引きこもってしまった。
結婚して1年も経っていなかった。
交通事故だった。
冷たく凍った道路で大型トラックがスリップし、歩道を歩いていた妻をすり潰すように横転したという。車の下敷きになっていた妻の体には、巨大なタイヤが圧し掛かっていた。
危険ですから、まだ近づかないで下さい。
そう言われる。
言われても近づこうとする私を、押しとどめようとする腕、肩。
その向こうに妻を見た。
車の下から上半身が出ていた。
引っ張れば、助けられそうにも見えた。
だが、妻の口からは大量の血があふれ出ていた。
辺りは血の海だった。
救急隊員に、落ち着いて話を聞いてください、と言われた。
言われなくても私の頭はやけにクリアーで、それ故に惨状を鮮明に記憶している。
奥さんは意識がはっきりしています。ですが、トラックを除けた瞬間、命を落とす可能性が非常に高いです。
なんて残酷なことを。
妻は地獄を味わっているという。
離れた場所で、軽傷だったトラック運転手が呆然としていた。
やがて、レッカー車が到着した。
トラックに金具を掛け、固定する。
被害が拡大しないことを確認したあとで、ベージュのセーターを血に染めた妻に、私は救急隊員に連れられて近づいた。
妻は仰向けになっていて、私が視界に入ると、笑った。
霧生さん、来てくれたの。
口の中が、真っ赤になっていた。
歯も、白くない。
唇を、頬を濡らした血が、地面まで落ちている。
痛々しかった。
ああ、来たよ。
救急隊員に支えられて立っていた私は、その腕から零れ落ちるように地面に膝をついた。
血の匂いを、こんなにも強く感じたことはない。
霧生さん、私、痛みを感じていないの。
はっきりとした口調で言う。
本当だろうか。
確かに微笑んでいるが、痛みを感じていないというのはどうだろうか。
麻痺しているようです。
後ろから声を掛けられる。
麻痺、しているの。
妻の言葉に頷いた。
……霧生さん、宗治をよろしくね。
左手を握って、目を見るの。
そうするとあの子、逃げないわ。
可愛い息子なの。
霧生さん、あの子はあなたが嫌いなわけじゃないわ。
許してやってね。
愛してやってね。
お願い。
お願いよ……。
涙も出なかった。
妻の言葉を拾おうと、一言すら漏らすまいと必死だった。
別れを告げる言葉と気付かず、ただ頷き続けた。
妻は、笑みを絶やさない女性だった。
最後の最後まで。
竹刀を取って。
大きく振るのよ。
常に練習を欠かさないで。
振るの。
大きく、強く振るのよ。
この言葉の意味は、ついに分からなかったが。
11月。
初霜の降りた日だった。
それから3ヶ月経ち、積もった雪は薄汚れ、その上に名残雪が降る。
もうじき、雪は降らなくなる。
息子は離れにこもりっきりで、滅多に顔を会わせる事はない。
離れの小部屋に布団一組と炬燵を置き、そこで一日中過ごしている。
17歳の息子は、本当ならば高校に行っているはずなのだが、事故の日から1度も学校には行かない。
私も、それをとやかく言う気にはなれなかった。
離れには風呂もトイレもある。
洗濯物と食事、新しい着替えを運んでやる時ぐらいしか、息子に近づく瞬間というものはなかった。
私自身、息子を避けていた。
妻にあまり似ていない息子だったが、妻の忘れ形見だと思うだけで、何か胸に詰まるものがあった。
私が妻を愛していたかどうかは不明だ。
だが、嫌いではなかった。
決して嫌いではなかった。
今年で21歳になった私だが、妻は私を子ども扱いしなかった。
私が老け顔だからかどうかはしらないが、見下すわけでもなかった。
両親によく言われる。
お前はその歳で老成しているというか、年寄り臭いというか…。
見た目が強面だから、老けているように見えるのかもねぇ……。
他人事のように朗らかに笑っているが、私はあんたらの息子だ。
言ったことはないが。
息子と私とは、4つしか歳が離れていなかった。
艶やかな黒髪に、白い肌は親譲りだろう。
離れに食事を運んだ時、ふと思った。
炬燵に潜り込み、こちらを見ようともしない息子の首筋は白い。
「食べないのか」
その日はよく晴れていた。
障子越しに、陽光が明るく透ける。
畳の上に格子模様が落ちた。
「冷める前に食べないと、硬くなるぞ」
炬燵の上にご飯と味噌汁、鮎の塩焼きと、ほうれん草の和え物を置いた。
デザートに汁粉も置いておく。
息子は私を無視し続けた。
返事を期待していたわけではない。
だから、さっさと部屋を出た。
ついでに脱衣場に置いてある脱衣かごを持ち、離れから母屋に戻った。
洗濯を終えて居間に戻ると、バイクの音がした。
郵便だろう。
玄関に向かうと、案の定、ポストの中に郵便物が届いている。
その内一通は、息子の通う高校から届いていた。
玄関の傘立てに、竹刀が入っている。
妻は新撰組が好きだったらしい。
息子に沖田総司の名前を付けるぐらい。
沖田総司と言えば、美貌の剣士だ。
若くしてこの世を去ったが、それを気にしてか、妻はソウジに別の漢字を当てている。
宗治。
兄弟ほどの歳の差しかない私を、彼はどう思っているのだろうか。
居間のソファに、杖を立て掛けるための突起がついている。
そこにも竹刀があった。
家中いたる所に竹刀がある。
一室につき1本だ。
もちろん離れにも。
車庫にも置いてある。
宗治は私を不思議そうな目で見ていた。
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妻妻妻妻と妻連発でしたね・・・。
どうぞ、お付き合いくださいませ。
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