オリジ小説9
オリジ
明の瞳が、ぼんやりと玉響を見つめる。
ホワイトボードにペンを走らせる姿は、「カッコいい」の一言に尽きた。
夏の暑さに窓は全開で、外からはにぎやかな蝉の鳴き声と、周りのクラスから教師の声が聞こえてくる。
その日は心地よい風の吹く日だった。
教室内を、悪戯な夏の風が吹き渡る。
所々の生徒が教科書やノートを手で押さえていた。
そんな中、玉響の白衣が優雅にひるがえる。
透明な陽射しの中で、真っ白な白衣はより白さを増していた。
明の瞳はうっとりと細められる。
玉響の指が髪をかき上げ、教科書の内容を確認してペンを振る。インクの出を良くする為だ。そして、ホワイトボードへ新たな文字を書き連ねる。
たったそれだけの行動が、美しい。
洗練されているというのだろうか。
明は酔ったように、溜息を零すばかりだった。
「…だから……太腿の皮膚は……」
今は、保健の授業中だ。
再生力について、玉響は説明している。
流れるような声音に、いつになく明は集中して授業に取り組んだ。
玉響の声だ。
わずかたりとも聞き逃したくない。
「よし、とりあえず、ここまでノートにとって。」
脚立の下敷きになってから2ヶ月。
明の足と首には、既にギプスは存在しない。
残っていた糸も全て抜糸されている。
ただ、生々しい傷跡だけはくっきりと残っていた。
それだけではない。
まだ、明は周囲から心配され続けていた。
また急に容態が変わるのではないか、倒れはしないか。
さすがに、もうそんな心配はないのだが、多少過保護な親と玉響は目を離したくないらしい。
最近、携帯電話を持たされた。
GPS機能の付いた携帯だ。
明は滅多に使わないが、玉響と母親は明の現在地を確認するためにこまめに自分の携帯を確認しているようだった。
「…今日は終わり。来週までに課題提出して。」
チャイムが鳴り、玉響は教科書をまとめる。
その目が明を捉えた。
どきりとして、明は固くなる。
「………。」
玉響の唇が、小さく動いた。
――おいで。
明は弁当の入ったバッグを抱え、勢いよく席をたった。
主人に呼ばれた仔犬のような勢いで、授業が終ったばかりの喧騒を掻き分けて走り寄る。
「せんせ…」
見上げる瞳は、玉響を信じきった純粋で無垢な色をしている。
「……授業、分かりやすかったかな?」
「うん、字も綺麗で読みやすかったし、声もちゃんと聞こえたよ」
「良かった……授業は嫌いだな、緊張するよ」
苦笑した玉響は教科書を抱え、教室から出て行く。
明もその後に続いた。
『放課後はいつものところで待ってて』
玉響の言葉だ。
最近、明は玉響と一緒に帰宅している。
しかし、人に見られたり学校側に知られると少しばかり面倒なので、玉響は学校の駐車場とは別の、少し離れた場所の月極駐車場を契約していた。
そこが、玉響と明の間でだけ通じる『いつものところ』だ。
終礼も終わり、明はいそいそと帰宅の準備を始める。
教室の人影は早くもまばらになっていた。
少しずつ、少しずつ、ざわめきが静まっていく。
明も準備を終え、教室から出た。
頭の中では、玉響の笑顔を想像している。
少しでも長い間、玉響を感じていたかった。
その背後から、腕が伸びる。
「っ…!!」
人の気配を感じて振り返った明は絶句した。
政司がいる。
認識したとたんに、唇を噛み締めた。
しつこい男だ。
明はさっと視線をそらした。
小走りになって、生徒玄関を目指す。
その後を政司が当然のように追ってきた。
「明、待ってくれ!」
明は振り返らない。
その腕を、政司は強引に掴んだ。
「やめてっ!!」
「…明……」
過剰なまでに反応した明は、顔を真っ赤にして政司を睨んだ。
振り解かれた腕を宙に置いたまま、政司は唖然とする。
「もう…関わらないで……」
そう言った明の腕を、政司は再び掴んだ。
明らかに強張った明の表情に、政司は苦しげに眉を寄せる。
本当は、こんな顔をさせたいわけではない。
ただこの体内で荒れ狂う愛しさを伝えたいのだ。
美しく、氷のような麗しさのうちに秘めた熱い想いを、明も感じていた。
だからこそ、怖い。
感情に任せ、何かとんでもないことをするのではないかと。
「離して…」
掴まれた腕と政司とを交互に見ながら、離してもらえないということは薄々気付いていた。腕を掴む力の強さと、その眼差しと。
あまりにも明を強く射竦める。
明は小さく震えた。
悪寒だ。
逃げられない。
心の中で、何度も玉響を呼んだ。
しかし玉響が助けてくれるはずがない。彼はここにはいないのだ。
「やめて、離してっ……」
明の哀願も虚しく、政司は明を引っ張った。
半ば引きずるようにして、彼は廊下を歩いていく。
空いた片手でポケットに手を入れた政司は、プレートの付いた鍵を取り出した。明の顔から、血の気がうせた。
『実験室』
そこは3階にある。
実験室は、他の実験室とは違って教室塔にあった。
実習塔にも実験室はあるのだが、教室塔にあるものとは規模が違う。
多大な設備を備えている教室塔の3階は、ワンフロア全てが実験室になっていた。だからこそ、人が少ない。
放課後になれば、それはより顕著になってくる。
明は引きつった声を出した。
周りからちらほらと視線が集まるものの、助けようとする人は誰もいない。
「…明…頼むから、大人しくついて来てくれ…」
振り向いた政司が言う。
その顔は本当に、辛そうだった。
だからと言って、明も大人しくついていく気にはなれない。
何か良くないことをされる。
それは直感的に分かっていた。
廊下を曲がり、階段に片足がかかる。
信じられないほどの力で腕を引かれ、明は突っ張ろうとする前に階段を上りはじめていた。下手に動けば、階段から落ちてしまう。
明の両目に涙が滲んだ。
――せんせ…助けてっ…!
見つめた足元が、涙でぼんやりとしている。
滑り止めの赤いラインが、不意に途切れた。
階段を上りきったのだ。
「明、ほら、急げ。」
より強い力で明の腕を引き、政司は明の瞳を見つめた。
涙で濡れていることに気付くと、目を見開く。
足を止めないまま、政司は口を開いた。
「…すぐに分かる。明が誰のモノか。」
顔を上げた明は、震える身体を誤魔化すように、胸のバッグを抱き締めた。
立ち止まった政司が実験室の鍵を開ける。
精一杯両足に力を入れた抵抗も虚しく、明は実験室へと引きずり込まれた。
「っ…」
ようやく解放された片腕を、バッグと共に胸へ抱き込む。
明はきつい眼差しで政司を睨んだ。
ドアを閉めた政司は、無表情で明に歩み寄った。
一歩後退り、腰に机が当たったので平行移動して逃げる。
その目はしっかりと政司を睨んだままだった。
「何するの…」
頭の中で、ジンジンするほど血の流れが分かる。
興奮と緊張で眩暈がしそうだ。
本当は何をされるのか分かっているだけに、鼓動は速くなる一方だった。
「明に正しいことを教えるんだ。」
「……何…」
広い実験室。
沢山の机。
逃げ場はいくらでもあるが、いつまで逃げなければならないのだろうか。
果てしなく、終わりのない鬼ごっこだ。
しかし、明の心配は無駄なものだった。
「明は俺の傍にいるべきなんだよ」
思わず硬直してしまうほどの身のこなしで、政司は机を飛び越えた。
あっと言う間に明は両腕を押さえつけられ、実験室の床に押し倒される。
落としたバッグは素早く政司の腕に払われ、武器としては使えない。
絶望的だった。
「…明は、俺のモノだろう……?」
凄絶な笑みが浮かぶ。
明は声にならない悲鳴を上げた。
実験室に、忘れ物をしてしまったらしい。
帰ろうと思い職員室に顔を出したら、
『先生、教室塔の実験室の鍵、どこにあるかご存知ないですか?』
と問われた。
その日教室塔にある実験室を授業に使った教師は玉響だけで、他の人間が鍵を持っているわけがない。
確かに鍵をかけ、キーボックスに戻したはずなのだが、思い込んでしまっただけのようだ。
明が待っている。
それが気になりはしたが、明日で済ませるわけにもいかなかった。
小さく溜息をついた玉響は荷物を持ち、教室塔の3階へ足を運んだ。
「……らしくないな。」
こんなミスは滅多にしない。
小さな溜息を零しながら、玉響は階段を上った。
明は『遅い』と言って怒るだろうか。
いや、怒ったとしても、すぐに抱きついてくるだろう。
明の行動は簡単に予想できる。
それ程親密な関係を築いていた。
実験室までの道のりが長く感じる。
明を待たせたくない。
少しでも寂しい思いをさせたくない。
ようやく3階に辿り着いた時、玉響の耳に聞き慣れた声がした。
――……っ!
それも、明の感じているときの声。
玉響以外が聞き得る事のない声だ。
ざぁっ、と音がするほど、血の気が一気に下がった。
玉響は勢いよく走り出し、実験室のドアに手をかける。
呆気ないほど簡単に開いたドアの中には、誰もいないように見えた。
「明っ!!」
どくどくと痛いほど脈が速い。
一見誰もいないが、確かに明の悲鳴が細く聞こえている。
飛び込むようにして踏み入った実験室の床に、ふたりはいた。
「…せん……せ………ぇ…」
床に爪を立て、淫らに腰を捩る明の姿と、明の細腰に唇を寄せる政司の姿が、玉響の目に鮮やかに映った。
「…何をしているんだ…」
見てしまった瞬間、呆然としてしまうほど冷静になっていた。
明の淫らな姿。
抵抗する様子は見せていない。
むしろ、両足を大きく開いて迎え入れようとしている。
「……せんせ…」
両目からぽろぽろと涙を零した明が、身体を起こそうとした。
それを政司が止める。
「辛いだろ…あんなに大声出してたんだし…」
優しい声。
玉響の胸に、氷の刃が突き刺さった。
息を乱した明の姿が、急に遠退いたように感じた。
明と目が合うが、玉響は顔を逸らして冷たく告げた。
「…早く服の乱れを直しなさい。」
「っ…せんせ……?」
明の声がする。
どこか、辛そうな声だ。
「早く。鍵を職員室に戻さないといけないんだ」
平坦な声。
明を気遣うことはない。
政司は口の片端を持ち上げ、にやりと笑った。
「さあ、明。」
これで明を手中に収めることができる。
最も慕っている相手が、こうまで冷たいのだ。
明も、もう失うものはないはずだ。
「立てる…?」
心配するような声音が玉響の気に障る。
そこまで行為を進めていたと言うのか。
明は自分よりも、歳の近い、やはり初恋の相手を選んだと言うのか。
「……急いでくれ。」
ふっと自嘲の笑みが漏れる。
初めから期待していい恋ではなかったのだ。
こうなることは、もしかしたら初めから運命のように決まっていたのかもしれない。いや、決まっていたのだ。
実験室から一足先に出た玉響は、ドアの横にもたれてふたりを待った。
何を話しているのか、一方的に政司の声がする。
ようやく出てきたふたりは、見せ付けるかのように寄り添っていた。
しかし、政司に肩を抱かれた明の顔色は悪い。
保健医として心配だが、今は深く探る気にもなれない。
唇まで紫色に近い明。
その肩を抱く政司は、当然といった顔つきで明を抱き寄せた。
膝が笑っているらしい明は、ふらりと政司の胸に抱かれる。
「…先生、黙っていてもらえますか」
ふたりの、関係を。
「生徒会長として、まずいので。」
少し目を伏せた政司に、玉響は浅く顎を引いた。
そして、政司から鍵を受け取る。
鍵をかける間、明の震える唇が何度も言葉を漏らそうとした。
その度に、政司が唇を塞ぐ。
柔らかな、キスで。
「じゃあ、早く帰るんだよ」
事務的な口調。
明の目が大きく見開かれた。
どうして助けてくれないの。
どうして分かってくれないの?
好きでこんなことをしていたんじゃないのに…!!
玉響は明に目もくれず、さっさと歩いていく。
追い縋ろうにも政司は離してくれない。
ぼろぼろと涙が零れた。
痛いほどに喉の奥が締め付けられる。
「先生、待って……せんせぇっ!!」
必死で張り上げた声にも、玉響は振り返らない。
その行動が明の胸を深く切り裂いた。
持っていたバッグを取り落とし、足を踏み出そうとする。
ただひとり、明を信じてくれた人。
素通りしていく人の中で唯一助けてくれた人。
誰よりも明を愛してくれた人。
その背が、どんどん遠退いていく。
追うことも、弁明することもできないまま、明は床にくずおれた。
愛しい人が離れていく。
それは死ぬ以上に辛いことだった。
いや、いっそ死ねたらどれ程楽だろうか。
生まれてから一度も、明はここまで大きな声を出したことがなかった。
どんなに苛められても。
どんなに辛くても。
「せんせえぇぇぇっ!!!」
悲鳴じみた声。
校舎に高く響く。
しかし、涙の壁に阻まれた白衣は振り向かなかった。
「ああ…あ…っ……!!」
見下ろす政司が腕を放した。
明は床に突っ伏し、既に姿も見えない玉響を恋しがるしかない。
涙が止まらなかった。
玉響を失ったことが信じられなかった。
死んでしまいたい。
殺して欲しい。
こんなに辛いのに、生きなければならない理由が見つからない。
辛くて辛くて、気が狂いそうだった。
「せんせぇ……っ」
声が掠れる。
前が見えない。
そのまま、明はしばらく床にうずくまっていた。
じっと明を見下ろしたままで、政司は動くのを待っているようだ。
何分経っただろうか。
何十分。いや1時間か。
時間の感覚が、既に狂っていた。
玉響を失ったと認識したとたんに、何もかもが音を立てて崩れていた。
それは泥人形が崩れるようで、そうでなければマリオネットの糸が切れてしまったようで、とにかく死んだようだった。
明はのろのろと立ち上がった。
落としたバッグを拾い、しっかりと胸に抱きこむ。
「明…?」
虚ろな、光を失った目で、明はぼんやりと歩いていく。
制服の胸元はボタンも留めず、白い肌がバッグ越しに覗いた。
そんな状態でも、明は歩いた。
背後から怪訝な様子の政司が声をかける。
だが、何かを言う気にはなれなかった。
全ての元凶であるにもかかわらず、文句を言う気にもならない。
明の心は真っ直ぐ、玉響を目指していた。
それ以外に、存在理由がないのだ。
玉響以外には、何も。
外は黒く雷雲が立ち込めていた。
もうじき雨が降る。
大雨になるだろう。
しかし、今の明にとってはどうでもいいことだった。
本当に、些細なことだった。
++++++++++++++++++++++++
失踪編の始まりです。
どうなるのでしょうか。
クライマックス間近。皆様最後までお付き合いくださいませ。
では。
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