オリジ小説6


オリジ


 頭蓋骨にヒビと、首・背骨の損傷、右腕の打撲に、鎖骨・右足の骨折。
 全身に擦過傷や痣。
 幸い、命に別状はない。
 後遺症も残らないそうだ。
 明は個室に入り、沢山のチューブにつながれていた。
 あの事件から1週間。
 明は未だに目を覚まさない。
「…明、今日の授業で使ったプリントと、要点だ。」
 毎日毎日、玉響は病院へ通った。
 学校での仕事を早めに切り上げることもあった。
 学校側は、それに対して何も言わない。
 言えないのだろう。
 あれほどの失態を、ずっと世間に隠していたのだから。
 それが今、事件として、学校の不祥事として、ニュースや新聞などに取り上げられている。
 偉そうに指図のできる立場ではない。
 学校側のずさんすぎる対応は、あっと言う間に世間へ広がった。
 一方で、ひそかに玉響の対応が評価されていた。
 玉響の元で研修したいという手紙が、ファンレターのように山積みとなっている。つい最近まで研修生だった身で、玉響はその要望には答えられなかったが、嬉しいことだとは思っていた。
 しかし、それよりも明だ。
 既に目を覚ましてもいいはずなのに、全く動く気配がない。
 突然心肺が停止することすらあった。
 問題は全くないはずなのに、問題が起きる。
 まるで明が目を覚ましたくないと訴えているようだった。
「明、今日はいい天気だ。」
 答えは返らないが、それでも声をかけ続けた。
 優しく髪を撫で、頬を包み込む。
 玉響の目は真摯に明を見つめ、決して逸れることがなかった。
 傍にいるときは必ず明を見ている。
 瞬きさえも、惜しむように。
 
 その明が目を覚ましたのは、留年が決定した翌日だった。

 ぼーっとして、焦点が定まらない。
 自分が今どこにいるのか、何故見ず知らずの場所で眠っていたのか。
 分からない。
 ただ、人の気配は感じていた。
 ひとりで喋り続けている。
 ぼんやりと瞳を向けると、目が合った。
「…明…?」
「……はい…」
 掠れた声で答える。
 明の顔を覗き込む人。
 その人に見覚えがあった。
 忘れるはずもない。何もかも分からない中で、明ははっきりと、その人の名前を思い出していた。
「…せんせ…玉響せんせ……」
 涙が一筋落ちる。
 一気に、記憶が甦った。
 それは吐き気がするほどの量で、明を押しつぶそうとする怒涛の波となって押し寄せてきた。
 思い出したくない。
 思い出せなくてもいい。あんな、忌まわしい記憶。
 最後に見たのは灰色の空と、鉄の脚立。
 後頭部を地面に強く打ち付けた瞬間、目の裏が血の色に染まり、「ぐしゃり」という音を聞いた気がする。
 熟れた李を、地面に押し付けてつぶす感じだった。
 ぞくりと震えた明の手を、玉響はきつく握りしめた。
「明、明っ…分かるか?」
「…せんせ……」
「良かった……どうなるかと思った…」
 心底ほっとした声だ。
 大きな手が涙を拭ってくれる。
「せんせ……夢…見たよ…」
「夢?」
 深い深い、夢だった。
 暗闇の中にずっと立っている夢だ。
 その闇の中に、2本の腕がある。
 片方は、『行こう』と言う。
 片方は、『帰ろう』と言う。
 競うように、2本の腕はさえずり、明を誘った。
 片方は、『もう辛い思いはしないでいい。楽になろう。痛みも苦しみも、全てが消えた世界へ行こう』と促した。
 片方は、『帰っておいで。全てを包んであげる。一緒に歩もう、守ると誓うから、明…。』と促した。
 明は片方の腕を掴む。
 明の名前を呼んでくれた腕を掴む。
 すると、にわかに光が差した。
 しかし、もう片方の腕がそれを阻む。
 明は暗闇へ引きずりこまれる。
 そして、振り出しに戻るのだ。
 それは明の迷いだったように思う。
 目を覚ませば苦痛を伴う日常が待っている。しかし、逃げては愛する人の元へは戻れない。唯一助けてくれた、愛してくれた人の元へ帰ることができなくなってしまう。母親も、十分恋しい。
 その狭間の葛藤が、明を暗闇に押し留めていた。
 けれど、毎日聞こえる愛しい声に、明はついに闇を振り解いた。
 柔らかな声。
 慈しむような、包み込むような。
「…おかえり、明」
 玉響の、声。
「……ただいま…」
 きつく抱き締めたい衝動を、玉響は堪える。
 柔らかな明の手を握りしめ、微笑むことしかできない。
 それはもどかしいことだったが、明が戻ってきたことが何よりも嬉しかった。
 自然と、笑みを交わす。
 明の頬が、ふわりと緩む。
「せんせ…」
「ん…?」
 額と額を触れ合わせて、くすくすと笑う。
 緊張の糸が、力を失っていく。
 ひたすら愛しい人。
 互いが互いを失いかけていた。
 けれど、今はしっかりと掴んでいる。
「大好き、せんせ…」
 公にはできないけれど、それでも、満たされている。
 ノックの音がした。
 惜しみながら離れ、玉響はドアへと向かう。
「はい」
「先生ですか?すみません」
 やってきたのは、明の母親だった。
「ちょうど良かった、今、明が目を覚ましたんですよ」
「!…本当ですか!?」
 慌てた足音に次いで、久しぶりに見る母親の顔が飛び込んできた。
 少し、やつれている。
「明、明ぁっ…!」
 泣き崩れるその姿に、明は目を伏せた。
 ベッドの端に顔を埋め、明の手をしっかり掴んでいる。
「母さん…」
 身体を起こした彼女は、明の顔に触れ、肩に触れた。
「明…大丈夫なの?痛いところは?」
「…ないよ…」
「良かった……良かった…」
 他に言葉が見つからないようで、「良かった」と繰返す。
 明がはにかんだ笑みを浮かべると、より一層涙を零して喜んだ。

 まだ、油断はできない。
 なにせ、頭を強打している上に、首や背骨にも損傷があった。
 幸い、脊髄へのダメージはなかったものの、もしかしたら容態が急変しないとも限らない。しばらくの入院が決定した。
「明、毎日母さん、来るからね。」
「うん。」
「欲しいものは?」
 彼女は強い。
 女手ひとつで明を育ててきた彼女は、明が憧れるほどに逞しかった。
 その母親がこれほどまでにやつれたのだから、相当心配したことは火を見るよりも明らかだ。明は唇を噛んだ。
「欲しいものはないけど…。」
 そう言いながら、ふと思い出す。
 あれはどうなったのだろう。
 明が、危険を冒してまで取り戻した、あの教科書は。
「教科書はどこ?」
 冷えた麦茶をコップに入れ、玉響が近寄る。
 ひとつを明の母親に、もうひとつを、サイドテーブルに置いた。
 そうしながら、明の身体をゆっくりと起こす。
「あの教科書なら、濡れてしまったから乾かしてみたよ」
「ほんと?良かった…捨てられてるんじゃないかと思った。」
「命がけで取った教科書だからね、捨てるには少し辛くて。」
 黒いバッグの中から、カピカピになった教科書を取り出して見せる。
 明に手渡し、玉響は小さく苦笑した。
「アイロン、あててみたけどだめだね」
「…パリパリしてる」
 指先でページをいくらか捲ってみたが、読めないことはない。
 明は笑った。
「ありがと、せんせ」
「…どういたしまして」
 そして、会話が途切れる。
 気まずい雰囲気だ。
 何事も起きていなければ、普通の会話を続けることができた。
 しかし、触れてはいけない話題を意識するうちに、会話が途切れてしまう。
 学校のことだ。
 明が脚立と一緒に倒されたあの事件は、マスコミの格好の餌食となった。
 明は知らないが、病院に記者が来たこともある。
 それ以前の問題、辛い思い出以外の何物でもないあの事件を、思い出したくもない。だから、自然とタブーになった。
 意識するあまり、気まずさは募るが。
「明…」
 だが、玉響はその事件にも向き合わなければならないと思っている。
 退院すれば、しばらくのリハビリを経て、復学することになる。
 そうなった時、事件の現場と再び触れ合うのは他ならぬ明自身だ。
 逃げても仕方ない。
「明は…また、あの高校に通うのかな?」
「…どうして?」
「嫌じゃない?」
「……ん…」
 俯いた明は教科書を撫でた。
 その口元に、淡い笑みが浮かぶ。
「嫌だけど…でも、少しだけ。」
 強いな。
 その言葉が、頭に浮かんだ。
「それに、あんな事があったから、皆、僕のこと苛めなくなるんじゃないかなぁって。そうなったら、ラッキーでしょ?」
 したたかに笑って見せる。
 それは、明の本心だったが。
「明…」
 母親も言葉がない。
「それに、せんせがいるもん。」
 偽りのない感情なだけに、玉響はほっとした。
 明が、うじうじと悩まないで良かった。
 明自身のために、良いことだと思った。
「そっか…」
 玉響の大きな手が、明の髪を優しく撫でた。
 明は目を細める。
 窓の向こうで、ツバメがくるりと輪を描いた。

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久しぶりの更新と相成りました。
今回は少し急いでしまい、全体的にぼろぼろな感じですが、流れだけでも掴んでいただければ幸いです。
では、次回まで。
ご意見・ご感想等は下記フォームまで。

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