オリジ小説5


オリジ


 入梅した。
 じめじめとしていて、人々の表情もどことなく薄暗い。
 そんな時期でも、明は玉響の傍にぴったりと寄り添い、元気にはしゃいでいた。梅雨の湿気など、彼らの前ではチリにも等しい。
「せんせ、試験の結果出たよ!!」
 一枚の紙を片手に、明は放課後の保健室に駆け込んだ。
 既に、足音から明だろうと察していた玉響は、満面の笑みで迎えてくれる。
「どうだった?」
「まだ見てない。一緒に見て、せんせ!」
 息を弾ませて、紙を胸に押し付けている。
「じゃあ、見ようか」
「うん……せーのっ」
「…………お、いいじゃない」
 紙にはたくさんの4が並んでいた。
 5段階表示の、4だ。
 中には5の数字もあり、嬉しいことこの上ない。
 ふたりの努力の成果が、綺麗に数字となって反映されていた。
 学年順位は惜しくも2位。もしかしたら、次の期末試験で1位となれるかも知れない。明は嬉しそうに微笑んだ。
「やった~……せんせ、2位だよ!!」
 成績通知表を放り出し、明はしっかりと玉響にしがみついた。
 玉響も小さな背を抱き返す。
「明、すごいじゃないか。教えがいのある生徒って、明のことだよ」
「ほんと?」
「ほんと。よく頑張ったからね。えらいえらい。」
「…ありがと」
 頭を撫でてもらいながら、明は照れて目を細めた。
「せんせ~、今度は、1位取れるかな?」
「明なら、取れるんじゃない?だって、飲み込みも早いしね。」
 大きな手は励ますように肩を叩いた。
 明は本当に努力家だ。
 一度決めると、必ずやり遂げようとするし、覚えもいい。もちろん、それに見合う努力もしている。テスト期間中、朝、昼、夕と保健室に通い詰め、土日になれば玉響をマンションに呼び出し、とにかく勉強漬けの毎日だった。
 その健気な姿を見ているから、明には1位を取ってほしい。
 明に対する、ご褒美にもなるのだから。
「せんせ、頑張るから、また勉強見てくれる?」
「いいよ…その代わり、あまり根詰めると倒れちゃうよ」
「平気。1回でもいいから、1位取りたいの。とれたら、あんまり無理しないようにする。」
「約束できる?」
「…する…できる。」
「じゃ、キスして」
 誓いのキスを、して。
 そう求められ、明は頬を染めながら唇を触れ合わせた。
 柔らかな感触の後、玉響が舌を伸ばす。
「…っ駄目」
「え~…どうして」
「…駄目ったら、駄目!」
 ディープキスは、駄目だ。
 明は免疫がない。
 そんなことをされたら、いつかのように流されてしまう。
 少し、自分でも残念に思いながら、明は首を振った。
「まぁ、いいけど…」
 明の耳を噛み、玉響はそっと苦笑した。

 その日はいつにも増して雨がよく降っていた。
 抜糸も済み、傷跡の残る瞼は雨に光った。
 そんな中、明は傘もささずに、中庭の記念樹の前で立ち尽くしている。
――どうしよう……。
 見上げる視線の先には、教科書。
 4メートルの高さに、明の教科書が引っかかっている。
 授業中であるために誰も見るものはいないが、それでもたまに通りがかる教師が目を丸くしていた。そして、いつも通りに声もかけずに去っていく。
 びしょ濡れの明は、頭を振った。
 雨水がバタバタと飛んでいく。
 登校時に使っていた傘は、誰かに盗まれてしまった。
 恐らく、教科書をこの樹に引っ掛けた犯人が隠してしまったのだろう。
 既に、下着までぐっしょりと濡れている。
 濡れた顔に触れると、冷たくなっていた。
――届かないかなぁ…
 そう思うが、背伸びをした程度で届く距離ではない。
 実習塔と教室塔、ふたつの校舎に挟まれた中庭で、明は辺りを見回した。

 授業中に倒れたという生徒も、無事、教室へ戻っていった。
 ただの貧血だった。
 その事にほっとしながら、張りつめていた神経をほぐすために立ち上がる。大きく背伸びをすると、背骨が鳴った。
 あと数分で、今日の授業も終る。
 清掃と終礼の後、きっと明はここに駆け込んでくるのだろう。
 想像しただけでも微笑ましい。
 玉響は廊下へ出た。
 中庭は、雨に打たれて騒がしい。
 木々の葉や草花は、雨粒の重みに垂れては跳ね上がっていた。
 そんな中に、不自然なほど黒々とした影がある。
 けぶる雨の向こう、廊下の硝子に手を付いて目を凝らすと、それは人だ。
 玉響は眼を瞠った。
 何故こんな雨の中に人がいるのだろうか。
 しかも、制服を着ているようだ。
 この学校の生徒ではないか。
 傘をさしている様子のないその人影は、小柄な身体で何か大きなものを担いでいる。大きいというよりは、長いというべきだろうか。
「……誰だ…」
 硝子に張り付いた水滴と横殴りにも近い雨のせいで視界は悪い。
 目を凝らすが、顔はよく見えなかった。
 じっと見つめて様子を窺う間に、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
 もうじき、保健室には掃除当番の生徒達が集まる。
 気になったが、保健室にいなければならない。
 記念樹の真下でふらふらと頼りない影に、なぜか胸騒ぎを覚えた。
 生徒達の話し声が聞こえる。
 玉響は後ろ髪を引かれる思いで、保健室へ戻った。

 物置から脚立を調達することができた。
 がっしりと重い脚立は頼りがいがあるが、それを運ぶ明の足取りは頼りない。二つ折りになった脚立をふらふらと記念樹の下まで運び、明はようやく一息ついた。これで、教科書に手が届く。
 記念樹の真下で脚立を開き、手頃な太い枝に立てかけた。
 雨に濡れてぬるぬるとした樹皮に手間取るが、所々に張り出した細い枝のおかげでどうにか固定できた。
 足元もぐらつかないことを確認して、明は足をかける。
 高いところは得意ではない。
 だが、登らなければ教科書は取れない。
 教科書がなければ、玉響に勉強を教えてもらうことができない。
 今まで書き込んできた苦労も水の泡だ。
 それは嫌だった。
 だから、明は濡れそぼっても教科書に手を伸ばす。
 真っ直ぐ、まだ届かない枝へ向かって。

 ふいに、廊下がにぎやかになった。
 数人の生徒が窓際に集まり、窓の外を見て笑っている。
 掃除の手を止め、走り去る生徒もいた。
「こら、掃除して」
 廊下に向かって声をかける。
 は~い、と返事はあるが、やはり外が気になるようだ。
 先程の人影がまだ外にいるというのだろうか。
 玉響は廊下に出た。
「何を見てるんだ」
「え?ああ…あそこ、見える?」
 わずかに雨脚の弱まった状態で、玉響はようやく理解した。
 外にいるのは、明だ。
 血の気が引いた。
 慌てて外へ向かおうとする。
 走り出した玉響の視界に、紅いモノが飛び込んだ。
「っ……!」
 傘だ。
 明に近付いている。
 廊下の生徒が窓を開けてはやし立てる。
 何をするつもりだ。
 廊下沿いに走り出した玉響の耳に、生徒達の笑い声がこびりついた。
 次いで、けたたましい音がする。

 もう少しで届きそうだった。
 震える膝を励まし、どうにかして教科書の近くまで辿り着いた明は手を伸ばした。指先が葉に触れる。
「んっ……」
 脚立にしがみつき、落ちるのではないかという恐怖に怯えながら、それでもぴんと伸ばした指先は教科書を求めた。
 だが、届かない。
 既に、あまりの高さに明は泣きそうになっている。
 あと1段だけ、登ることができれば届くのに、その1段が怖くて仕方ない。
 じっと教科書を見つめた。
 下を見ないようにして、片足をわずかに浮かせる。
 怖気づいて戻りそうになる足を必死で引き返し、上の段に乗せた。
 あとは身体を引き上げるだけだ。
――せんせ……っ
 曲げた膝を、ぐっと伸ばす。
 同時に腕を伸ばし、教科書を木の枝から奪い去った。
――取ったぁ~…
 ほっとした。
 片腕に抱いた教科書は明のようにびしょ濡れだが、苦労して取り戻しただけに、他のどの教科書よりも特別な存在に見えた。
 降りて、玉響のいる保健室に行こう。
 きっと、びしょ濡れの明を見て心配してくれる。
 教科書のことを話せば、怒りも共有してくれるだろう。
 そして、優しく抱き締めてくれるのだ。
 血に汚れることを厭わなかったあの日のように、雨で濡れることにもかまわず、強く、強く。
 期待しながら、明は1段降りた。
 その視界が、揺れた。
 なぜか、はしごを握る手元を見ていたはずなのに、次の瞬間には空を見ていた。灰色の、泣いている空を。

 薄い色の血が流れている。
 雨をはねながら辿り着いた時、明は人形のように動かなかった。
 雨と共に流れる血の量はおびただしい。
 教科書を抱く明の上には、頑丈すぎるほどの脚立が圧し掛かっていた。
「明、明ぁっ!!」
 叫びながら、制服の袖を持ち上げる。
 柔らかい二の腕の肉をきつくつねると、わずかに眉を寄せた。
 まだ意識はある。
「明、明…しっかりして」
 しかし、すぐに寝てしまう。
「明…?」
 最終的には、何度つねっても反応しなくなっていた。
 玉響は明の口を開き、口の中に嘔吐物がないか確認した。
 そして飛び上がるようにして駆け出す。
 再びちらついた紅い傘に、殺意にも似た憎しみを感じた。
 走りながら唇を噛む。
 悪戯のつもりだったのだろう。
 明が教科書を手にしたとたんに、紅い傘をさした少年は脚立を蹴った。
 だが、このぐらいで脚立は倒れないはずだ。
 真横に蹴ったのならばともかく、彼は真っ直ぐに蹴っていた。
 脚立を支えている枝のおかげで倒れることはないはずだった。
 不幸とは、重なるものだった。
――ガーゼと止血帯と…
 保健室に飛び込んだ玉響は非常用の短縮ダイヤルを押した。これで、自動的に救急車が呼び出される。
 応急手当に必要な道具を抱え、玉響は息が切れるのもかまわず走り出した。
 紅い傘。
 あの中にはふたりの少年がいた。
 ひとりではなかった。
 ふざけてひとりが脚立を蹴った直後、もうひとりが反対側に回り、友人が逃げたのを確認して脚立を蹴り倒したのだった。
 そして明は地面に叩きつけられた。
 その上に、重い鉄の脚立を抱きとめて。
「明、しっかりして!明!!」
 明のもとへ戻ると、紅い傘の少年は真っ青な顔をして立っていた。
 少し離れた場所に、もうひとり。
 そんな様子のふたりには目もくれず、玉響は明の傍らに膝を突く。
 後頭部を強打しているはずだ。
 廊下の窓から見た様子では相当の衝撃のように窺えた。
 後頭部をペットボトルに入った水で洗い流し、ガーゼを押し当て、包帯で力を加減しながら固定する。地面に触れないように、ビニールシートを頭の下に敷いた。
 あまり動かしてはならないから、かなり手こずってしまう。
 それでも、玉響はせっせと処置を続けた。
 流れる血が止まらない。
「明…もうすぐ救急車が来る…大丈夫だ」
 励ますが、その声も聞こえてはいないだろう。
 明の顔には血の気がなく、唇は紫色に変色を始めていた。
 華奢な体が震えだす。
 呼吸も脈も正常だが、このままでは危ない。
 さすがに、玉響の手元も震えだした。
 明を失うのではないかと思うと、冷静ではいられない。
 いつの間にか強く惹かれている。
 そんな存在が消えたとき、どうなってしまうだろう。
 想像するだけで背筋が凍った。
 救急車のサイレンの音が、儚げな音から少しずつ近付いて大きくなる。
 一応の応急処置は終った。
 あとはひたすら、明に声をかけ続けるだけだ。
 明の上に覆い被さり、これ以上雨に濡れないように。
 大事な明が溶けてしまわないように。
「救急です、どいてください!!」
 声がした。
 はっとして顔を上げると、いつの間にか人の輪に囲まれている。
 人ごみを掻き分けて、救急隊員が走り寄ってくる。
 玉響はのそりと立ち上がった。
 腹の中で、黒くうねる何かがある。
 怒り、だ。
 ふつふつと、煮えたぎる。
 辿り着いた救急隊員には、よどみなく状況を伝えることができた。
 中庭に入れられた救急車へと、明は運ばれていく。
 玉響も同伴することになった。
 表面上は穏やかに。
 しかし、救急車へ向かう足がふと止まった。
「…お前たちは……何を考えているんだ…」
 静かな声。ざわめきにかき消され、はじめの方は消えてしまう。
「どうして、こんなことをする……こんな大事になって、お前たちは、今更のこのこ出てきて何のつもりだっ!!」
 辺りが静かになった。
 全ての視線が玉響に集まる。
 眩暈がするほどの怒りは、教職員に、生徒たちに、全てのものにぶつけられた。
「分かっているのかっ自分のしでかした事が!!明が死んだらどうする!?最善を尽くしましたとでも言って、頭を下げて終るつもりかっ!?死んだらもう帰ってこないんだぞ、おもちゃと勘違いするんじゃない!!頭を金槌で割ってやろうか!!そうすれば、お前たちのような救いようのない馬鹿にでも人の痛みが分かるか、ああっ!?どうなんだ!!」
 殺してやりたい。
 皆殺しにしてやりたい。
 指を1本ずつ切り落とし、関節ごとに四肢を切り離し、けして死なないように輸血で生かす。気絶したならば、目が覚めるまで待ち、そしてこの世で最も辛い痛みと恐怖を与えてやりたい。
 誰にともなく叫び、玉響は憎悪の滲み出す瞳で辺りを睨みつけた。準備を終え、救急車はもうじき病院へ向かう。
 じりじりと救急車へ向かって歩きながら、玉響は周囲の怯えを肌で感じていた。
 それ程の迫力。
 愚か者にでも理解可能な、激しすぎる憎悪と憤怒。
 吸い込まれるように、玉響が救急車へと乗り込む。
 瞬間、彼の瞳が柔らかく細められた。
 視線の先には明がいる。
 後部のドアが閉まり、救急車が走り出す。
 雨脚が、再び強まった。

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はい…。アクシデント編の始まりです。
感情の表現、ちゃんとできているのかどうか不安です。
では、この辺で。
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