オリジ実験体4
オリジ
夢を見た。
春が大声を上げて泣いているのだ。
しかし、姿が見えない。
きっと心細くて仕方ないに違いない。
春は待っている。
どこかで、殊羽を待っている。
だから、起きなくては。
そう思って目が覚めた。
部屋の中で、頭に響くほどの騒音が駆け巡っている。
音の正体にはすぐに気づいた。
ひとつは枕元のアラーム。そして携帯端末の呼び出し音。更に、部屋に取り付けられた電話。この3つが、同時に大合唱を繰り広げていた。
疲れが抜けきらない体を励まし、殊羽はまずアラームを止めた。
次に、携帯に出た。
暫くは、どこかで聞いたことのある声にふんふんと頷いていた。次第にそれが同僚の声であることを思い出す。
くだらない会話を続ける同僚に適当な相槌を返しながら、部屋の電話へ歩み寄る。鳴り止まない電話の音に気づいた同僚は遠慮して話を終わってくれた。
携帯と電話の受話器とを持ち替え、殊羽はのろりと応対する。
その寝ぼけ眼が、次の瞬間見開かれた。
春が消えた。
どこに逃げたのか分からない。
どうやって逃げたのかも分からなかった。
ただ、手の空いている人間もそうでない人間も、必死になって探した。
実験体となった人には判断能力が無いことが多い。だから、実験体として研究所にいる間は、所員の手によって守られる。その責任を負っている以上、研究所員は必ず無事な姿で保護しなければならない。
殊羽も、跳ね上がる寝癖をそのままに春を探した。
ただ、どこに行けばいいのか分からなかった。とりあえず、騒然としている寮内を走り回った。
限界まで見開かれた瞳には、実験体が逃げ出したことに戸惑う人々の姿や整然と並ぶドア、廊下の照明が映っている。だが、あまりにも突然に起きた『春の失踪』が衝撃的過ぎて、物の形を正確に把握できていない。
春ではない物としてしか、脳が処理してくれなかった。
息が途切れるのもかまわず、エレベータを無視して隣の階段を駆け上がる。1階から2階へ、更に3階まで、立ち止まることすらなく走った。
「っ………」
走りすぎて喉がひりひりと痛んだ。
朝から水分を一滴も補給していない。枯れた喉は、小さくヒューヒューと音を立てた。膝も笑っている。
休みそうになる体を叱咤して、殊羽は4階へ向かった。
春はきっと心細くて泣いているのだろう。
それを思うと、自分の体の疲労がとても小さなもののように感じる。
階段を1段、2段と飛ばし、4階のフロアを踏み締める。
視界の端に見知った顔を見つけたが、意識は向かなかった。勢いよく駆け出す。その腕を掴まれた。
「誰だっ!?」
邪魔をするのは。
他人にかまうのももどかしいほど焦っている殊羽は、思わず怒鳴りつけていた。掴まれた腕を振り解き、顔も見ないで再び走ろうとする。
だが、それでも懲りずに腕を掴む。
そうなってからようやく、殊羽は相手の顔を見ていた。
「怒鳴るなよ。」
鈴だった。
きょとんとした顔で、殊羽を見上げている。
「邪魔しないでくれ。春がいないんだ。」
「知ってる」
「だったら…っ」
「俺の部屋にいるから。」
何が。
一瞬、口をついて出そうになる。
荒い息が、少しずつ整っていった。その間に殊羽の頭もクリアになっていく。そしてようやく理解した。
「………お前、正気か…?」
春を連れ出したのはおそらく鈴だ。
セキュリティシステムに細工を施し、証拠を残すことなく春を連れ出したのだろう。侵入はいくらでも可能だから、鈴には何の問題も無かったに違いない。
鈴は天才的な頭脳を持っていた。
「行こう。」
殊羽の腕を離した鈴は、まるで『ちょっとそこまで飲みに行こう』とでも言うような軽さで促した。
呆れる反面、膝から崩れ落ちそうなほど安堵している。
無意識のうちに肩から力が抜けていた。
「昨夜、カメラの映像を切り替えたんだ。思ったより上手くいった。水槽の周りに人がいなくなる時間が5分だけあるだろう?監視してるやつらは俺が切り替えた別の映像を見てるわけだし。簡単すぎて、拍子抜けした。」
「お前は何を考えてるんだよ…」
ドアの横にある装置に顔を近づけ、眼球の情報を読み取らせている鈴は鼻で笑った。すぐにドアが開き、セキュリティ完備の部屋へ入る。
うんざり顔の殊羽も、後に続いた。
部屋に入った瞬間、リビングのソファで体を丸めている春に気づく。
ほっとした。
今は眠っているようだが、頬には涙の轍が残っている。
ずっと泣いて、泣き疲れて眠ったのだろう。
鈴はキッチンに消えた。
その間に、殊羽はソファに腰掛ける。
毛布に包まれて眠る春の隣で、盛大な溜息が零れた。
「心配したんだぞ……」
そう呟いて、屈み込むように春に覆い被さる。
頬にキスを落とし、柔らかい髪を梳いた。
体中に染み込むように広がった安堵が、春への愛しさへと変わっていく。
ぎゅうっと体を丸めた春は、うっすらと微笑んだ。
「……手間のかかる子だ。」
手間は確かにかかる。
けれど、それ以上に愛しくてたまらなかった。
額が痛むのではないかと思うほどに、春は胸に擦り寄ってくる。
無意識の愛情表現に、殊羽の顔にも深い笑みが広がった。
キッチンから戻ってきた鈴は殊羽の前にコーヒーを置き、自らは対面のソファに腰掛けてココアをすすった。
「そんなに気に入ったのか」
上目に見上げてきた鈴が、悪戯っぽく笑う。
殊羽は軽く眉を寄せ、気まずそうに顔を逸らした。
「弟に似ているから、特別気になるだけだよ」
「ふーん。弟ねぇ……。」
分かっている。
春は弟に少しも似ていない。
「素直になれないせいで、何かを無くしても知らないからな」
そう言った鈴は、少しだけ俯いた。
微妙な表情の変化に気づいた殊羽は、口を開こうとする。
だが、鈴が拒んでいるような気がしてやめた。
不自然な沈黙が流れる。
まとい付くような空気に、春が身を縮めて目を覚ました。すぐに殊羽の胸にしがみ付き、匂いを感じているように顔を上向ける。
目が合った瞬間、春はぱぁっと明るい表情になった。
思わず和んでしまう。
「相好崩しちゃって…」
見てらんないね、と今度は鈴が顔を逸らした。
「殊羽……」
ぎゅうっと抱きつく春は、不安げに鈴を盗み見ている。視線に気づいた鈴が、フン、と鼻で笑った。
「せいぜいあと30分ぐらいが、一緒に好きなだけいられる時間なんじゃないのか?」
できるだけ、春は寮の周辺で見つかったという事にしたかった。そうするには、どう見積もっても30分しか一緒にいられない。それ以上はあまりにも不自然すぎる。30分でも怪しいのだ。
それを指摘され、殊羽は顔色を変えた。
短すぎる。
共に、人目を気にすることなく、また春が実験体であるということを考えることなく寄り添える時間が。
春を傷つけることもなく、思う様に愛してやれる時間は30分しかない。
何ができるだろうかと考え、何もできないと思った。
「殊羽」
大したことは何もできない。
だから、せめて春のことを抱きしめていようと思った。
腕の中に閉じ込められた春は、より活発なスキンシップを求めて身をよじる。解放してやると春ははしゃいで飛びついてきた。
無邪気な表情が、胸に痛かった。
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最近可愛いものに身も心も傾いています。
子猫が生まれたからでしょうかねぇ…。
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